平成20年活動報告⑧ 藤森照信教授講演会

藤森照信氏 講演会 平成20年10月1日

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みなさん知っているこの公会堂――。今治市の名誉市民で丹下健三氏が設計したこの建築物。

今治市に丹下氏が設計したものは小さいものも入れて7箇所。これだけ丹下氏が設計した建物が集約する場所は今治だけです。

ICPCの運営会議で出てきた話題の一つに公会堂が平成20年に50周年を迎えるというのを受け、まず知ることから始まると考えたICPCは講演会を企画。

丹下建築の研究で第一人者の東京大学生産技術研究所の藤森照信教授を迎え「丹下健三氏とその作品郡を活用したまちづくり」と題し丹下氏の講演会を開催しました。

 

丹下氏の主な作品

1955年 広島平和会館(現・資料館東館)・広島平和記念公園

1958年 今治市庁舎・公会堂

1960年 今治信用金庫本店(現・愛媛信用金庫今治支店)

1964年 東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)

1970年 日本万国博覧会会場基幹施設計画・お祭り広場

 

父危篤の知らせにより帰郷の途にあり、今治の空襲で母も失った1945年8月6日丁度その日に、外国雑誌でル・コルビュジエソビエト・パレス計画案に出逢い、建築家を志した想い出の地でもある広島が原爆の被災で壊滅的被害を受ける。その復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んだ丹下は、残留放射能の危険性を心配される向きがあるにもかかわらず、志願して担当を申し出た。1946年夏、浅田孝大谷幸夫ら東大の研究室のスタッフとともに広島入りし、都市計画業務に従事した。その成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、見事一位で入選という形で結実することとなった。

この平和記念公園のコンペでは、他の計画案が公園内のみを視野に入れた設計案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通りと直交する軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配したことで他を圧した。広島の復興計画において、この市街地を貫く都市軸を通した事で、戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える。また、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームを、シンボル遺跡として発見したのは、事実上、丹下だと言ってよい。実際、今からすると信じ難いことではあるが、1966年(昭和41年)7月の広島市議会において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 

丹下健三さんの歩みは、日本近代建築の歩みそのものであるといっても過言ではありません。

コンクリート建築の柱梁による日本的表現で名建築を生み出してきた40代の丹下作品・・・

1958年に作られた市役所は柱梁の美学で建てられたもので、公会堂は折版構造による建築です。

 

講演会のあと見学ツアーが開かれ、藤森さんと共におよそ50人の参加者が丹下建築を肌で感じました。目指すのは1960年に立てられた、愛媛信用金庫の今治支店。

 

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丹下氏のお弟子さんの磯崎新さんが主に設計に携わりました。

この建物にはかなりの遊び心が入っていると言われます。丹下さんはとにかく海がみえるようにと言っていたそうです。

愛媛信用金庫今治支店の屋上からはかっては海が見えたといいます。

郷土今治の海で遊んだ思い出は丹下氏の源風景だったとおしゃっていました。

 

藤森さんにはこの後、みなと再生基本計画のプロポーザル選考委員会委員長を引き受けていただきました。

 

ICPCではこういった丹下氏の作品に目を注ぎ、丹下氏の故郷今治として広く市民が思えるよう活動を展開していきます。