みなと探検パフォーマンス①

e6b8afe5868de7949fe5a794e593a1e4bc9aefbc91平成20年2月に答申された『みなと再生構想』。

その中で、ハード整備に先駆け、みなと再生を盛り上げるべく盛り込まれていたのが、ICPCという考え方。

ICPC(今治シビックプライドセンター)は港を整備するという公共空間をいかした街づくりを担うべく平成20年7月、ICPC運営会議としてスタートしました。

 

昨年はICPCがどのような形で活動をするのかという議論や先進地の視察を行い、今年の3月のICPCフォーラムにて、【いよいよみなとが動き出す。】と題し平成21年度のアクションプランを発表しました。

 

そして今年――。

まず初めのアクションとして行われたのが、『みなとマルシェ』。

昨年の議論の中で、ICPCのコンセプトは《市民と港再生をつなぐプラットフォーム》と決まりました。

そして今回のマルシェでは、まず『今治港の現在(いま)を確認する』という考え方の元みなと探検パフォーマンスを開催しました。

今治港の歴史やいろいろみなとの持つポテンシャルを10ポイントのミッション(司令)として巡ってもらうツアーを企画。

 

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受付でツアーの全体図とミッション①を受け取りツアースタート。

みなと探検パフォーマンスに参加いただいた方は280人あまり――。

 

 

まずミッション①の指令は《今治港が国際貿易港に指定されたのはいつか調べよ!》です。

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ミッション①のカードに記されている内容は・・・

 

 

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 太平記に「今(いま)の湊(みなと)に舟をそろえ」のくだりがあり、古くから今張(後の今治)の名が船着場として記録されています。

旧今治港の起源は、慶長5年 1604)藤堂高虎(とうどうたかとら)公が20万3千石のこの地に築城し、城下町を建設、その城の北隅に舟入船頭町を造営したことに始まります。

 

 

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明治初年までは、小舟が出入りする港にすぎませんでしたが、その後、商工業の発展により、多くの船舶が寄港するようになりました。当時は、施設不備のためこれらの船舶は沖にいかりを繋ぎ、はしけ船で荷物の揚げ下ろしをしていました。

 

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大正(11)年、今治港は四国初の開港場(国際貿易港)に指定されました。

 戦後の変動期には、港も一時衰退しましたが、昭和 26年重要港湾の指定を受け、今治港の安全宣言が告示され開港場(かいこうば)今治港は再び動きだしました。

 

 今治港は背後に紡績、タオル、織物、縫製品等の繊維(せんい)産業、造船業やその関連産業の発達した工業地帯を有するため、原材料及び製品を中継する港として発展しました。

 また瀬戸内海国立公園を擁する観光港として華やかな脚光(きゃっこう)を浴びました。

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昭和45年、台風10号によって被害を受けた今治港。東防波堤が決壊(けっかい)し、第1、第2桟橋、片原町フェリーボート桟橋は流出し、クレーンは全壊する被害を受けました。

施設の復旧は常識を超えたスピードで行われ、およそ1年で復旧。今治港の重要性を示す結果となりました。

 

 

e6b8a1e6b5b7e888b91渡海船(とかいせん)

渡海船は、島しょ部と今治港を結ぶ重要な役割を果たしていました。

要望に応じて、生産物を今治に運び販売し、必要な日用雑貨を購入するという便利屋さん。昭和30年代には50隻近くあった渡海船は昭和40年代に入り、今治と島を結ぶフェリーの就航とともに減少し、しまなみ海道開通後は、数隻にまで減少しました。

 

こういう形でみなとの歴史が紹介されました。明日はミッション②からを紹介します。