第一期 今治シビックプライドスクール 第3回報告

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第3回 今治シビックプライドスクール

村上哲朗(今治商店街協同組合理事)「今治商人とみなと」

1 古きよき時代の今治商人(商店街)とみなと

  昭和30年から商店街の隆盛が始まりましたが、今治港の乗降客のピークが昭和49年に約300万人を記録しました。その頃は商店街周辺も大変に賑わっておりました。片原町周辺にもたくさんの食堂、旅館がありました。当時米長旅館、かどや、菊水、いわしや、はなやま旅館、村上旅館、七福旅館、丸一旅館、丸八旅館、それから美保町にかけてあと2,3軒くらいありました。問屋街でも活況でした。それは渡海船がたくさんいたからだろうと思います。昭和34年に登録されているだけで47艇ありました。片原町に着いていた頃です。商店街の売り出しの時はそのチラシを船にいっぱい貼っていました。それにより商店街も賑わいました。

昭和33年10月10日には市庁舎と公会堂の落成記念に森繁久弥氏を呼んでパレードをしました。昭和36年の新聞記事ですが、前途洋々の今治商店街となっております。雨の日も風の日も車で行くことのできる横に繋がるデパートである。この頃本町では耐火住宅の計画が上がって近代的な街並みの展望もありました。当時は港、商店街がどこまで発展するだろうと思われていました。対しまして、昨年の今治大丸閉店の記事です。この間約50年で栄枯盛衰が見られました。

渡海船に戻ります。47艇いた渡海船は平成14年に3艇、現在は藤丸トラックに聞くと、関前大下の金比羅丸1艇だそうです。内港から藤丸トラックで青果市場から出ています。船は売却等で復活することは不可能に近いそうです。

商店街はえびす祭りでは新居浜、四国中央、広島からも客が来て大変に賑わっていました。自分が子供の時に通学する時にも店の前に人が並んでいたのを覚えています。出店もたくさんあり、昭和47年には今治デパート、フジ共栄店が出店、昭和48年に大洋デパートが大丸になり、翌年には今治センターが高島屋になり、最後に昭和51年ニチイ今治店が出店しました。この時代が大型店が商店街周辺に揃った時です。50年代は商店街が花火大会を開催し、昭和56年から6,7回開催しました。その後アーケードを設置したり増強を図る中で、平成3年のヴィサージュが最後の大きい出店でした。

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2 今治商人(商店街)とみなと 時代の岐路

バイパスが出来るとフジ共栄店が平成5年に小泉に移転しました。平成9年にはフジグランが出来、翌年にはワールドプラザが出来ました。追い討ちをかけるように平成11年にはニチイがサティとなり馬越に出店しました。商店街には大型店を引きとめる力は無く、港も乗降客を失っていきました。平成9年には180万人に減少し、架橋後、平成11年に110万人にまで減少しました。平成19年に55万人になって今年は大型フェリーも寄港しなくなったのでもっと減っていると思います。こうなると本来の港の機能が無くなったと言っても過言ではありません。港の衰退と商店街の衰退の時期が符合していますが、港の衰退だけが原因だとは思っておりません。やはりバイパス延伸に伴う郊外型店舗の出現が大きいように思います。港も貨物が新港湾に移り、それに伴い青果市場も昭和48年に天保山に移りました。これは乗降客が増えたために貨物を分けなければならないため必然でありました。商店街が発展したのは偶然の要因が大きかったけど、衰退したのは必然だったのかなと思います。こうなる前に行政や商店街は予測出来なかったのだろうかと思います。ただ商店街も黙って手をこまねいていた訳ではありません。

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3 過去にあった みなと活性化への試み

架橋の事は予測していました。そうなった場合に北インターから港までを湾岸道路で結ぶ計画を答申しました。その後ポートルネッサンス計画。これは昭和62年頃だと思いますが、港の護岸を整備して沖洲に内港の半分を埋めて、ギャレリアというショッピングセンターを作るというものです。この計画は行政主導だったのか、商店街主導だったのかよくわかりませんが、当時ポートルネッサンスという港周辺をきれいにしていく国の施策に乗って構想を立てていたということだったと思います。青年会議所がこのポートルネッサンスが出来ると仮定して、1993年に伊予水軍の里という構想を立てています。平成9年今治商業まちづくりビジョン。これは港と大丸近辺の2核を結ぶ商店街をモールにしていくといったような様々な構想を打ち出していました。衰退に向かっていく中で、実現はしませんでしたが、みんな一所懸命に考えていました。ポートルネッサンスの中で護岸をきれいにすることは出来ました。

現在ではICPCが進めていたみなと再生構想も止まってしまった。そういう中で港をどうするか。99年に橋が開通してイベントが開催されました。港でも行いましたが、オープニングナイトに17,500人、食の散歩道に58,000人、ジャズタウンは今治城を中心に行いましたが、19,400人。年間ではテーマ館、港会場、フィッシャーマンズワーフで23万人の集客がありました。このようにお金のかかるイベントを行うと集客が期待できます。

船が来なくなった港について、島の人に話を聞いたら航路が減ったから商店街に行かなくなったのではなく、商店街に魅力が無くなったから行かなくなったと聞きました。我々商店主が商店街が寂れたのは航路が減ったからと考えるのと逆の考えです。以前は商店街に行けば、全て買い物が出来た。今は港に着いてもそこからバス等で郊外に行かなければならない。もし以前のように商店街に商品が揃っていればまた商店街に行きますと。海運業者に聞いたら航路を減らす時に補償金をもらっているから航路の復活は無いだろうとのことでした。

マリン関係の方は「海の駅」の発想を持っていて気軽に立ち寄れる港にして欲しいとの事です。港にシンボルが欲しい。海事学校を誘致する。朝市の開催。船を使ったしまなみ海道の周遊。プレジャー船の所有状況をみても、瀬戸内沿岸でかなりの数が在籍しています。これをうまく利用できないかなと。船が着くようになれば、また街が活性化するのではと期待しています。

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4 まとめ・商店街に対する思い

コンサルが計画を立てた時、我々はこれが実現すればもう一回頑張れるなとは思っても自分たちが本当にどうしようとか商店街の中で話合った経験はないと思います。今は街を守りたいと思っております。空店舗が40%を超えていますが、空店舗でも住んでいる方もいます。商店街は先人が作ってくれた町ですから風向きが悪くなったからといって方向転換はしたくない。我々がここにいて商売を続けることで町を守りたい。