第一期 今治シビックプライドスクール報告 第2回

第2回 今治シビックプライドスクール

阿部克也(日鮮海運 代表取締役社長)「海運・造船と今治とみなと」

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1 今治地域に海運・造船産業が集積した背景

約800年前、源平の合戦で村上水軍が活躍した頃に遡ります。水軍にもいろいろありますが、佐賀伊万里の松浦水軍、明の時代にも倭寇として恐れられていました。和歌山南部と一部三重が含まれます九鬼水軍。これは戦国時代に信長と組んで村上水軍を破りました。それから瀬戸内海東部の塩飽(しわく)水軍が有名です。

源平合戦の時、源頼朝にとって西方の水軍を押えていた平家は強大な敵でありました。平家は厳島神社を造ったり山の神、海の神である大山祇神社にも信仰が厚かったといわれております。ところが、村上水軍は権勢を誇っていた平家が朝廷をないがしろにしたり奢り高ぶり堕落する様に見切りをつけて、源氏に見方をするようになりました。1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。これはほとんど水上の戦いです。次に1281年元寇の時(弘安の役)、河野通有(1250年~? 伊予国久米郡の武将)が水軍を束ねて鎌倉幕府に加勢して蒙古を撃退しました。

室町時代には1419年、村上水軍は能島、来島、因島と3つに分かれました。その方がいづれかが残るだろうと考えたと思います。伯方島の禅興寺(伯方町木浦甲 曹洞宗 能島村上水軍の菩提寺)は村上氏初代本家の村上雅房(1431年~1515年)が建立しました。

一番有名なのは5代目の武吉(1533年~1604年)ですが、この時代に水軍は隆盛を極めました。初代国分寺城主も務めました。その頃、中国地方では山内氏が勢力を伸ばしていました。まだ小大名だった毛利元就は厳島の戦い(1555年)で村上水軍は毛利に加勢して大勝利を収めました。その後、瀬戸内海を航行する船から警固料を徴収するシステムを確立し、勢力を拡大しました。しかし、信長は商業の自由化を推し進めていた中で、水軍の徴収システムが邪魔になり、敵対するようになりました。1576年第一次木津川口の戦いで九鬼水軍を完全に打ち破りましたが、2年後の第二次木津川口の戦いでは信長の考案した鉄甲船6隻からの大筒、大鉄砲により惨敗しました。しかしながら村上水軍はこの後も日本最大の水軍力を維持しました。1586年のルイス・フロイスの手記には村上水軍は大名にも匹敵すると書かれています。能島村上水軍は1588年、秀吉が通行料、警固料の徴収を禁止する海賊禁止令を公布したことにより大打撃を受けて今治からの配置換えも受けました。

村上水軍が残したものは、秋山真之が水軍の戦術をヒントに丁字戦法で日露戦争において勝利を収めました。愛媛県は総理大臣を輩出してませんが、県人は日本を2回救ったと思っております。元寇と日露戦争。この両方に水軍は大きな貢献をしています。水軍がいなかったら外国の属国になっていたかもしれません。

江戸時代は九州の大名が参勤交代で海路を使ったり、朝鮮通信使が12回日本に来ております。その警固を水軍が任されていました。警固と塩の運搬。

最盛期には瀬戸内の塩が全国の90%を占めていました。入浜式から流化式に変わり石炭の運搬が必要でした。友浦では鍛冶屋が多く釘や碇も運びました。それらによって維持してきました。近代では別子銅山の銅の運搬。別子から出た鉱石を四坂島に運ぶことで海運は発達しました。

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2 今治の海運産業の現況

今治市は合併により世界有数の造船・船主の多い市になりました。造船所の建造隻数は日本の17%です。今治市に拠点をおいている造船会社のグループ全体では日本全体の1/4を超えます。今治市の保有外航船は約800隻で、日本全体で2,300隻ですので約1/3は今治市が保有しています。日本の貿易の99.7%は船で運搬しています。その1/3は今治の船ということですね。

昨今の不況で海運業界も影響を受けておりますが、コンテナ船、自動車船等はそれが顕著です。バラ積み船は石炭を運びますが、火力発電所は石炭が必要ですので、その需要により石炭を運ぶこの船は不況の影響がさほどありません。この船は小麦等も運びますが、要するに生活に密接な物資を運ぶ船は不況の影響が少ないですが、コンテナ船など製品を運ぶ船は影響を受けています。

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3 みなと再生を考える

オスロのみなと再生を例にあげます。みなと再生委員にも入っていましたし、いろんな意見を発信させていただいております。海運業を営んでいますので、今までの経験等を踏まえ直感で述べさせてもらいます。オスロはノルウエーの首都ですが、かつてオスロ中央駅から伸びる道路が栄えていました。今治でいうと駅から広小路といったところでしょうか。ノルウエーはバイキングが有名ですね。コロンブスが新大陸を発見する前からアメリカに行き来していました。そういうバイキング精神を呼び戻せとみなと再生を進めました。現在はまだ途上ですが、見事に再生しております。

港には市庁舎があります。ここでノーベル平和賞が授与されます。港の特徴として、階段や柵がありません。ノルウエーでは自分の身は自分で守るのが基本とばかりに行政が過剰に介入しません。カフェやレストランがあり、上層階には居住スペースとなっています。統一感はありませんが、高級感があります。日本の場合、港には港機能しかありませんね。散歩する人、日光浴する人、カフェでくつろぐ人、思い思いに港を満喫しています。そして、海に面したビル群の2列目には海運会社や銀行の本店など、オスロを代表する企業が集積し、今やこの地区への立地はトップ企業のステータスになっています。現在も岸壁沿いにビルが建設ラッシュですが、ステータスを求め入居の順番待ちとなっています。

みなと再生委員会でも申しましたが、日本の場合港は用途の制限があり、居住等には使えません。同じ様な資料は当時再生委員会のメンバーにも提示しました。みなとに公園を作るという案もありますが、散歩やイベントなど一時的には賑わっても後に続きません。やはり人が住んで日常的に賑わうみなとがいいのではないかと思います。コペンハーゲンやハンブルグなどは新港に機能を移して従来のみなとは町として再生させています。今治においても、日常の賑わいを創出し、行政がお膳立てするだけでいいくらいのまちになればいいと思います。高知のひろめ市場みたいに何でも持ってくるような施設は長続きしないと思います。自ら入ってきたくなるようなステータスを作らないといけません。また、みなと周辺の商店街、内港の回り、問屋街も発展させたい。そうすることによって、地価が上がり、土地を売って次の商売ができるような好循環が出来ればと願っております。