第一期 今治シビックプライドスクール 開催記念講演会

第一回 今治シビックプライドスクール

村上正郎(今治史談会会長) 「歴史の中の今治とみなと」

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本田総一郎はいい車を作るためにアイデアを出せと言ったところ耳触りの良い案がたくさん出てきました。そこでデメリットは何かと聞いたらほとんどが無いとの答えだったので却下したそうです。いい物の裏には様々な障害がありそれを乗り越えるためにどうするかが大事で美辞麗句を並びたてる案は採用しなかったそうです。

それを踏まえた上でみなと再生というのは港務所の建物の話ではありません。船がまず大事。船の事を考えずに港再生と言えるのか。商店街が寂れたのは人の往来が少なくなったからではない。今はどうして人が来なくなったのか原因対策をしていません。結果対策のみです。確かに昔は今治は人が溢れていた。それは今治が瀬戸内海随一の交通ハブ都市だったから。その人の流れがあったから商店街が出来た。しかしその人だけに依存していたわけではありません。自分の子供の時は商店街に行けば楽しいことがあって、買い物を目的に商店街に行っていた。尾道連絡船の客も買い物はしていたが、ついでであって、本当に買い物をしていたのは市民であったはず。だから商店街は交通人口に頼らず他にしなければならないのではないかと思います。

【今治開港以前】

日本は渡来人がやって来て始まりました。魏志倭人伝の頃には100余国があり、国といっても村のようなものであり、全部港だったようです。河口から水を求めて水源地を抑え、なわばりを作り村になり、村が国になっていくために交易ができる港や海が非常に大事でありました。今は船が不便だからと橋を架けるが橋は線だが海は面だから非常に便利です。港が無ければ国はできていなかったのです。

日本が発展したのは港があったから。大きな工業地帯はほとんど海辺にあります。すぐに海から運べるので輸送コストが低い。ヨーロッパは陸地部にあるから海に行くまでに時間がかかりコスト高で日本に勝てない。日本においては港がいかに重要だったかがわかります。

今治には国府がありましたが、今治に国府を作り国司が任命されたのは全国で6番目だが、5番目までは壬申の乱の論功行賞でそれ以外では今治が初めてです。藤原京時代では唐にならって律令政治を整備するために公務員を任命し、行政を行う場所が必要でした。皇族の住居の延長上の都ではなく初めて本格的な都を造ろうとしてできたのが藤原京です。唐をモデルにしたかったが白村江の戦いで唐と断絶していたので当時周公坦が編集した周礼という教科書を参考に作りました。今治の国府は都のミニュチュア版であるが、その様式の国府は今治が初です。当時の港は今の材木団地の所。標高2.5mのところが湾曲しているがそれが昔の入り江の跡であり、竜登川、名切川、高下川3本の川は運河の跡だと思います。これは藤原京にも流れていた川と同じ配置です。

藤堂高虎が作った今治城も全国初がたくさんあります。江戸時代の近世城郭様式は今治から始まっています。その様式発祥の記念碑を作っていいくらい。建物、堀、石垣全て日本初。城、商店街、港三位一体で作ったのは初めて。三重の堀の外側を商人が使える港としていました。高虎は天正時代に長崎に2回行き、南蛮人から大航海時代の話を聞き、当時は銀の含有量の多さから日本が世界の貿易の中心という話を聞き、泰平の世になった後は交易が大事だと認識し町づくりを行いました。

【今治開港以後】

今治は明治維新後、四国でいち早くヨーロッパを参考にした脱亜入欧政策で発展しました。それにより四国で一番早く貿易港になり、最初のキリスト教会を建て、いち早く物資の集積所となりました。

大正時代11年に四国初の開港場となりその翌年に港の第1期工事が完成し、広小路等街の基礎が出来始めました。大正14年には定期航空路が出来ました。堺から高松~今治とつなぎました。それは今治が貿易港だったのと鉄道もあり内航では尾道鉄道連絡船と東西南北の交通網がありました。空陸海全て揃っていたのは四国では初でした。ですから松山に空港を取られたのは誠に惜しいことです。物資は空陸海全て揃っているところに集まる。今治がそれを維持していればもっと発展していたでしょう。

戦後は自動車の発達でカーフェリーが出来ました。昭和34年に三原と就航し、翌年には下田水と就航しました。やがて客船の大型化に伴い、岸壁が整備され、貨物船も大型化していきました。しかし、内港は狭いので貨物と旅客を分ける必要があるので蔵敷に新港湾を作りました。昭和49年には今治港の乗降客が295万人とピークを迎えました。それから少しずつ減少し、しまなみ海道開通後は一気に100万人を割りました。貨物はというと新居浜港が昭和22年に貿易港に指定されましたが、それまでは税関が今治にしか無かったので今治を経由していましたが、貨物の取扱量も半分程度になりました。あまり減ると税関を閉鎖されてしまいますので材木の取扱量を増やし貯木場も出来、なんとかつなぎとめました。貨物においては旅客程減っていませんし、大量輸送の時代になりコンテナが必要になり、コンテナの仕分けも必要になってきます。新港湾にはコンテナヤードがあり、そこで仕分けて運送する一連の業務で最盛期ほどではないにせよ活況を呈しています。

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【直面する問題と対策】

港は船が出入りしてこそ意義があります。どうすれば船が出入りできるのか。定期航路は減少する中でどうするか。それにはクルージングが必要になってきます。相手があってこその港ですからネットワーク作りをしないといけません。

瀬戸内海が一体となって遠方から来ても滞在できるプランを作る必要があります。四国88か所はネットワークにより辺境の寺でも同じように人が来る。今治はネットワークを使いクルージングをすればいいと思います。幕末に英、蘭、仏、米の四国連合艦隊が下関を砲撃した帰りに瀬戸内海を通ってこんなにも次から次へと景色が変わる海は世界中どこにもないと絶賛していました。ヨーロッパの人達は1か所で見る景色より連続する景色に興味があるそうです。今、瀬戸内海で外国人が一番多い観光地は宮島です。今治とも近く宮島とつなぐ広域観光にはもってこいだと思います。

江戸時代に朝鮮通信使が下関を出て上関、蒲刈、鞆の浦、牛窓、室津、兵庫とつなぎました。現在は兵庫以外は主要な定期航路を外れています。牛窓はヨットハーバーと釣りです。よく東洋のエーゲ海と言われております。そこは岡山のリゾートエリアですから活況があります。鞆の浦は風光明媚です。その他の港は今治と同じで段々寂れてきています。では、今治はどうするべきか。持っている観光資源を活かすことです。合併により市の真ん中に海があります。こんなところは全国どこにもありません。ですから先進地に学ぶこともできない。だから今治がモデルを作ればいい。海でつながったまちですから橋という線ではつなぎきれない。海という面を使って広範囲につなぐ必要があります。

今、コンテナ船が全盛の時代で船が大型化しております。コンテナも大量に仕分けしないといけません。そこで赤帽が増えます。そうすると渡海船も増えないといけないのに何故増えない。島の住民の高齢化で橋を通行することもままならなくなり、病院に薬も取りに行けない。そこで渡海船が便利屋として代行サービスをすればいい。市が助成してでもするべきです。それに船はCO排出量も自動車よりも少ない。環境問題と高齢者対策両方が解決できます。

港というものは受け入れ先の港がないといけません。車にしても自宅に駐車場があっても行き先に駐車場が無ければ行くことが出来ても停められない。港もこれと同じでネットワークがないといけない。広域ネットワークで宮島と結ぶ。そこで今治港に受け入れ態勢を整えます。交流するためにはどういう建物が必要か待合室には船を待つ間の娯楽施設も必要だし来訪者に対する案内所等もてなしの気持ちで考えないといけません。ネットワークを構築し、交流するためにはオフィスビルではなく、交流できる建物が必要です。

海は常に動いております。判断を先送りしていたら命に関わります。刻々と変化する状況の中で先読みし判断する力が必要です。これを海の思想といいます。港を考える上でも思想教育が必要です。子供のための海の博物館を造りたい。中古の船を寄付してもらって岸壁に停泊させ、海の教育を行う。人材教育は子供のうちから始めてもいいのではないかと思います。そこまでして海事都市と言えるのではないかと。大消費地が近くに無いから海に投資をするしかない。ですから海運・造船が基幹産業になったのです。

これからを考える時には歴史を踏まえて考えないといけません。今治は常に歴史の中で先頭を行っていた。これからも他のモデルになれるまちであると考えております。