第3回今治シビックプライドスクール開催報告

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第3回今治シビックプライドスクールは「今治商人とみなと」と題し、講師に今治商店街協同組合理事 村上 哲朗さんをお招きし開催されました。

 

1 古きよき時代の今治商人(商店街)とみなと

  昭和30年から商店街の隆盛が始まりましたが、今治港の乗降客のピークが昭和49年に約300万人を記録しました。その頃は商店街周辺も大変に賑わっておりました。片原町周辺にもたくさんの食堂、旅館がありました。当時米長旅館、かどや、菊水、いわしや、はなやま旅館、村上旅館、七福旅館、丸一旅館、丸八旅館、それから美保町にかけてあと2,3軒くらいありました。問屋街でも活況でした。それは渡海船がたくさんいたからだろうと思います。昭和34年に登録されているだけで47艇ありました。片原町に着いていた頃です。商店街の売り出しの時はそのチラシを船にいっぱい貼っていました。それにより商店街も賑わいました。

昭和331010日には市庁舎と公会堂の落成記念に森繁久弥氏を呼んでパレードをしました。昭和36年の新聞記事ですが、前途洋々の今治商店街となっております。雨の日も風の日も車で行くことのできる横に繋がるデパートである。この頃本町では耐火住宅の計画が上がって近代的な街並みの展望もありました。当時は港、商店街がどこまで発展するだろうと思われていました。対しまして、昨年の今治大丸閉店の記事です。この間約50年で栄枯盛衰が見られました。

渡海船に戻ります。47艇いた渡海船は平成14年に3艇、現在は藤丸トラックに聞くと、関前大下の金比羅丸1艇だそうです。内港から藤丸トラックで青果市場から出ています。船は売却等で復活することは不可能に近いそうです。

商店街はえびす祭りでは新居浜、四国中央、広島からも客が来て大変に賑わっていました。自分が子供の時に通学する時にも店の前に人が並んでいたのを覚えています。出店もたくさんあり、昭和47年には今治デパート、フジ共栄店が出店、昭和48年に大洋デパートが大丸になり、翌年には今治センターが高島屋になり、最後に昭和51年ニチイ今治店が出店しました。この時代が大型店が商店街周辺に揃った時です。50年代は商店街が花火大会を開催し、昭和56年から6,7回開催しました。その後アーケードを設置したり増強を図る中で、平成3年のヴィサージュが最後の大きい出店でした。

 

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2 今治商人(商店街)とみなと 時代の岐路

  バイパスが出来るとフジ共栄店が平成5年に小泉に移転しました。平成9年にはフジグランが出来、翌年にはワールドプラザが出来ました。追い討ちをかけるように平成11年にはニチイがサティとなり馬越に出店しました。商店街には大型店を引きとめる力は無く、港も乗降客を失っていきました。平成9年には180万人に減少し、架橋後、平成11年に110万人にまで減少しました。平成19年に55万人になって今年は大型フェリーも寄港しなくなったのでもっと減っていると思います。こうなると本来の港の機能が無くなったと言っても過言ではありません。港の衰退と商店街の衰退の時期が符合していますが、港の衰退だけが原因だとは思っておりません。やはりバイパス延伸に伴う郊外型店舗の出現が大きいように思います。港も貨物が新港湾に移り、それに伴い青果市場も昭和48年に天保山に移りました。これは乗降客が増えたために貨物を分けなければならないため必然でありました。商店街が発展したのは偶然の要因が大きかったけど、衰退したのは必然だったのかなと思います。こうなる前に行政や商店街は予測出来なかったのだろうかと思います。ただ商店街も黙って手をこまねいていた訳ではありません。

 

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3 過去にあった みなと活性化への試み

  架橋の事は予測していました。そうなった場合に北インターから港までを湾岸道路で結ぶ計画を答申しました。その後ポートルネッサンス計画。これは昭和62年頃だと思いますが、港の護岸を整備して沖洲に内港の半分を埋めて、ギャレリアというショッピングセンターを作るというものです。この計画は行政主導だったのか、商店街主導だったのかよくわかりませんが、当時ポートルネッサンスという港周辺をきれいにしていく国の施策に乗って構想を立てていたということだったと思います。青年会議所がこのポートルネッサンスが出来ると仮定して、1993年に伊予水軍の里という構想を立てています。平成9年今治商業まちづくりビジョン。これは港と大丸近辺の2核を結ぶ商店街をモールにしていくといったような様々な構想を打ち出していました。衰退に向かっていく中で、実現はしませんでしたが、みんな一所懸命に考えていました。ポートルネッサンスの中で護岸をきれいにすることは出来ました。

  現在ではICPCが進めていた港再生構想も止まってしまった。そういう中で港をどうするか。99年に橋が開通してイベントが開催されました。港でも行いましたが、オープニングナイトに17,500人、食の散歩道に58,000人、ジャズタウンは今治城を中心に行いましたが、19,400人。年間ではテーマ館、港会場、フィッシャーマンズワーフで23万人の集客がありました。このようにお金のかかるイベントを行うと集客が期待できます。

 

  船が来なくなった港について、島の人に話を聞いたら航路が減ったから商店街に行かなくなったのではなく、商店街に魅力が無くなったから行かなくなったと聞きました。我々商店主が商店街が寂れたのは航路が減ったからと考えるのと逆の考えです。以前は商店街に行けば、全て買い物が出来た。今は港に着いてもそこからバス等で郊外に行かなければならない。もし以前のように商店街に商品が揃っていればまた商店街に行きますと。海運業者に聞いたら航路を減らす時に補償金をもらっているから航路の復活は無いだろうとのことでした。

マリン関係の方は「海の駅」の発想を持っていて気軽に立ち寄れる港にして欲しいとの事です。港にシンボルが欲しい。海事学校を誘致する。朝市の開催。船を使ったしまなみ海道の周遊。プレジャー船の所有状況をみても、瀬戸内沿岸でかなりの数が在籍しています。これをうまく利用できないかなと。船が着くようになれば、また街が活性化するのではと期待しています。

 

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4 まとめ・商店街に対する思い

  コンサルが計画が立立てた時、我々はこれが実現すればもう一回頑張れるなとは思っても自分たちが本当にどうしようとか商店街の中で話合った経験はないと思います。

  今は街を守りたいと思っております。空店舗が40%を超えていますが、空店舗でも住んでいる方もいます。商店街は先人が作ってくれた町ですから風向きが悪くなったからといって方向転換はしたくない。我々がここにいて商売を続けることで町を守りたい。

子ども商店街スタッフ募集

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子どもの目線で商店街を歩いてみるとどう映るのでしょう?

楽しく回遊してもらう為にはどのような仕掛けがいるのでしょうか?

 

ICPCではそんなことを考え2月14日(日)に行われる『えびす市』に合わせてイベントを開催します。

当日お手伝いしていただくだけのスタッフではなく一緒にイベントを作り上げてみませんか?

講師として「ろぜっとわーくす」代表中山康夫氏を招きイベント全体のプロデュースをお願いします。

ろぜっとわーくすは、子どもたちと自然の間に『虹のかけ橋』を創作する自然ふれあいあそびのプロ集団です。

 

http://www.vegasprings.com/rosetteworks/index.html

 

こどもたちには誰にでも無限の可能性が秘められています。その可能性を引き出してあげることのできるのは、身近な自然と、その自然を気づかせてあげられることのできる、身近な良き大人の理解者だと私はいつも思っています。

おとなたちが力を合わせ、地域のこどもたちに素晴らしい野あそび体験をさせてあげようではありませんか。ろぜっとわーくすでは、豊富な野あそびメニューを用意して、こどもたちが自然の中で楽しく遊べるお手伝いをいたします。

                          (ホームページより)

 

中山さんを講師に招き、自然→商店街のフィールドに変え、子どもたちに楽しい体験をしてもらう商店街独自のフィールドワークを作成します。

 

《スケジュール》

12月23日(水祝)

   ○コンセプト・・・子どもたちが参加して持って帰ってもらいたいもの(タイトル)

   ○おもしろポイントの抽出

 

会場:美須賀コミュニティープラザ(今治市常盤町3-1-5)

 

9:30~ 受付

10:00~10:30 趣旨説明 

10:30~12:30 商店街探索

            デジカメを使った情報収集

12:30~13:30 各自昼食

13:30~15:30

            ○各班探索発

            ○全体のイメージ確認

            ○全体のイメージ集約

15:30~16:00

            中山先生 総括

            

    

12月23日以降のスケジュールは未定な部分がおおいのですが、23日で決まったことを踏まえメールのやり取りでコース設定を行い参加できる体制をつくります。

その後参加者のみの話し合いを設け、コース確認・ちらしイメージづくりをべニーズにて行います。

1月24日(日)

(美須賀コミュニティープラザ)コース最終確認・制作物作成等を行います。

2月13日(土) 全体最終確認

2月14日(日) 本番

 

以上のようなスケジュールでおこなっていければと思います。参加してみたいと思われる方は12月16日(水)までに事務局までお知らせください。

TEL 0898-32-5126

第2回今治シビックプライドスクール開催報告

第2回今治シビックプライドスクールは日鮮海運 代表取締役社長 阿部 克也さんを講師に迎え開催しました。講演内容「海運・造船と今治とみなと」です。

スクール内容を要約して記載します。

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1 今治地域に海運・造船産業が集積した背景

 約800年前、源平の合戦で村上水軍が活躍した頃に遡ります。水軍にもいろいろありますが、佐賀伊万里の松浦水軍、明の時代にも倭寇として恐れられていました。和歌山南部と一部三重が含まれます九鬼水軍。これは戦国時代に信長と組んで村上水軍を破りました。それから瀬戸内海東部の塩飽(しわく)水軍が有名です。

 源平合戦の時、源頼朝にとって西方の水軍を押えていた平家は強大な敵でありました。平家は厳島神社を造ったり山の神、海の神である大山祇神社にも信仰が厚かったといわれております。ところが、村上水軍は権勢を誇っていた平家が朝廷をないがしろにしたり奢り高ぶり堕落する様に見切りをつけて、源氏に見方をするようになりました。1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。これはほとんど水上の戦いです。次に1281年元寇の時(弘安の役)、河野通有(1250年~? 伊予国久米郡の武将)が水軍を束ねて鎌倉幕府に加勢して蒙古を撃退しました。

 室町時代には1419年、村上水軍は能島、来島、因島と3つに分かれました。その方がいづれかが残るだろうと考えたと思います。伯方島の禅興寺(伯方町木浦甲 曹洞宗 能島村上水軍の菩提寺)は村上氏初代本家の村上雅房(1431年~1515年)が建立しました。

一番有名なのは5代目の武吉(1533年~1604年)ですが、この時代に水軍は隆盛を極めました。初代国分寺城主も務めました。その頃、中国地方では山内氏が勢力を伸ばしていました。まだ小大名だった毛利元就は厳島の戦い(1555年)で村上水軍は毛利に加勢して大勝利を収めました。その後、瀬戸内海を航行する船から警固料を徴収するシステムを確立し、勢力を拡大しました。しかし、信長は商業の自由化を推し進めていた中で、水軍の徴収システムが邪魔になり、敵対するようになりました。1576年第一次木津川口の戦いで九鬼水軍を完全に打ち破りましたが、2年後の第二次木津川口の戦いでは信長の考案した鉄甲船6隻からの大筒、大鉄砲により惨敗しました。しかしながら村上水軍はこの後も日本最大の水軍力を維持しました。1586年のルイス・フロイスの手記には村上水軍は大名にも匹敵すると書かれています。能島村上水軍は1588年、秀吉が通行料、警固料の徴収を禁止する海賊禁止令を公布したことにより大打撃を受けて今治からの配置換えも受けました。

村上水軍が残したものは、秋山真之が水軍の戦術をヒントに丁字戦法で日露戦争において勝利を収めました。愛媛県は総理大臣を輩出してませんが、県人は日本を2回救ったと思っております。元寇と日露戦争。この両方に水軍は大きな貢献をしています。水軍がいなかったら外国の属国になっていたかもしれません。

江戸時代は九州の大名が参勤交代で海路を使ったり、朝鮮通信使が12回日本に来ております。その警固を水軍が任されていました。警固と塩の運搬。

最盛期には瀬戸内の塩が全国の90%を占めていました。入浜式から流化式に変わり石炭の運搬が必要でした。友浦では鍛冶屋が多く釘や碇も運びました。それらによって維持してきました。近代では別子銅山の銅の運搬。別子から出た鉱石を四坂島に運ぶことで海運は発達しました。

 

 

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2 今治の海運産業の現況

今治市は合併により世界有数の造船・船主の多い市になりました。造船所の建造隻数は日本の17%です。今治市に拠点をおいている造船会社のグループ全体では日本全体の1/4を超えます。今治市の保有外航船は約800隻で、日本全体で2,300隻ですので約1/3は今治市が保有しています。日本の貿易の99.7%は船で運搬しています。その1/3は今治の船ということですね。

 昨今の不況で海運業界も影響を受けておりますが、コンテナ船、自動車船等はそれが顕著です。バラ積み船は石炭を運びますが、火力発電所は石炭が必要ですので、その需要により石炭を運ぶこの船は不況の影響がさほどありません。この船は小麦等も運びますが、要するに生活に密接な物資を運ぶ船は不況の影響が少ないですが、コンテナ船など製品を運ぶ船は影響を受けています。

 

 

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3 みなと再生を考える

 オスロのみなと再生を例にあげます。みなと再生委員にも入っていましたし、

いろんな意見を発信させていただいております。海運業を営んでいますので、今までの経験等を踏まえ直感で述べさせてもらいます。オスロはノルウエーの首都ですが、かつてオスロ中央駅から伸びる道路が栄えていました。今治でいうと駅から広小路といったところでしょうか。ノルウエーはバイキングが有名ですね。コロンブスが新大陸を発見する前からアメリカに行き来していました。

そういうバイキング精神を呼び戻せとみなと再生を進めました。現在はまだ途上ですが、見事に再生しております。

港には市庁舎があります。ここでノーベル平和賞が授与されます。港の特徴として、階段や柵がありません。ノルウエーでは自分の身は自分で守るのが基本とばかりに行政が過剰に介入しません。カフェやレストランがあり、上層階には居住スペースとなっています。統一感はありませんが、高級感があります。日本の場合、港には港機能しかありませんね。散歩する人、日光浴する人、カフェでくつろぐ人、思い思いに港を満喫しています。そして、海に面したビル群の2列目には海運会社や銀行の本店など、オスロを代表する企業が集積し、今やこの地区への立地はトップ企業のステータスになっています。現在も岸壁沿いにビルが建設ラッシュですが、ステータスを求め入居の順番待ちとなっています。

みなと再生委員会でも申しましたが、日本の場合港は用途の制限があり、居住等には使えません。同じ様な資料は当時再生委員会のメンバーにも提示しました。みなとに公園を作るという案もありますが、散歩やイベントなど一時的には賑わっても後に続きません。やはり人が住んで日常的に賑わうみなとがいいのではないかと思います。コペンハーゲンやハンブルグなどは新港に機能を移して従来のみなとは町として再生させています。今治においても、日常の賑わいを創出し、行政がお膳立てするだけでいいくらいのまちになればいいと思います。高知のひろめ市場みたいに何でも持ってくるような施設は長続きしないと思います。自ら入ってきたくなるようなステータスを作らないといけません。また、みなと周辺の商店街、内港の回り、問屋街も発展させたい。そうすることによって、地価が上がり、土地を売って次の商売ができるような好循環が出来ればと願っております。

第1回今治シビックプライドスクール開催報告

    第一回今治シビックプライドスクールが今治史談会会長 村上 正郎さんを講師に迎え開催しました。講演内容「歴史の中の今治とみなと」です。

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 港再生事業の政策転換を記事等で拝見しましたが、これは私が市長でも立ち止まると思います。

本田総一郎はいい車を作るためにアイデアを出せと言ったところ耳触りの良い案がたくさん出てきました。そこでデメリットは何かと聞いたらほとんどが無いとの答えだったので却下したそうです。いい物の裏には様々な障害がありそれを乗り越えるためにどうするかが大事で美辞麗句を並びたてる案は採用しなかったそうです。

それを踏まえた上で港再生というのは港務所の建物の話ではありません。船がまず大事。船の事を考えずに港再生と言えるのか。商店街が寂れたのは人の往来が少なくなったからではない。今はどうして人が来なくなったのか原因対策をしていません。結果対策のみです。確かに昔は今治は人が溢れていた。それは今治が瀬戸内海随一の交通ハブ都市だったから。その人の流れがあったから商店街が出来た。しかしその人だけに依存していたわけではありません。自分の子供の時は商店街に行けば楽しいことがあって、買い物を目的に商店街に行っていた。尾道連絡船の客も買い物はしていたが、ついでであって、本当に買い物をしていたのは市民であったはず。だから商店街は交通人口に頼らず他にしなければならないのではないかと思います。

 

 

【今治開港以前】

 日本は渡来人がやって来て始まりました。魏志倭人伝の頃には100余国があり、国といっても村のようなものであり、全部港だったようです。河口から水を求めて水源地を抑え、なわばりを作り村になり、村が国になっていくために交易ができる港や海が非常に大事でありました。今は船が不便だからと橋を架けるが橋は線だが海は面だから非常に便利です。港が無ければ国はできていなかったのです。

 日本が発展したのは港があったから。大きな工業地帯はほとんど海辺にあります。すぐに海から運べるので輸送コストが低い。ヨーロッパは陸地部にあるから海に行くまでに時間がかかりコスト高で日本に勝てない。日本においては港がいかに重要だったかがわかります。

 

 

 今治には国府がありましたが、今治に国府を作り国司が任命されたのは全国で6番目だが、5番目までは壬申の乱の論功行賞でそれ以外では今治が初めてです。

藤原京時代では唐にならって律令政治を整備するために公務員を任命し、行政を行う場所が必要でした。皇族の住居の延長上の都ではなく初めて本格的な都を造ろうとしてできたのが藤原京です。唐をモデルにしたかったが白村江の戦いで唐と断絶していたので当時周公坦が編集した周礼という教科書を参考に作りました。今治の国府は都のミニュチュア版であるが、その様式の国府は今治が初です。当時の港は今の材木団地の所。標高2.5mのところが湾曲しているがそれが昔の入り江の跡であり、竜登川、名切川、高下川3本の川は運河の跡だと思います。これは藤原京にも流れていた川と同じ配置です。

 

 

 藤堂高虎が作った今治城も全国初がたくさんあります。江戸時代の近世城郭様式は今治から始まっています。その様式発祥の記念碑を作っていいくらい。建物、堀、石垣全て日本初。城、商店街、港三位一体で作ったのは初めて。三重の堀の外側を商人が使える港としていました。高虎は天正時代に長崎に2回行き、南蛮人から大航海時代の話を聞き、当時は銀の含有量の多さから日本が世界の貿易の中心という話を聞き、泰平の世になった後は交易が大事だと認識し町づくりを行いました。

 

【今治開港以後】

今治は明治維新後、四国でいち早くヨーロッパを参考にした脱亜入欧政策で発展しました。それにより四国で一番早く貿易港になり、最初のキリスト教会を建て、いち早く物資の集積所となりました。

大正時代11年に四国初の開港場となりその翌年に港の第1期工事が完成し、広小路等街の基礎が出来始めました。大正14年には定期航空路が出来ました。堺から高松~今治とつなぎました。それは今治が貿易港だったのと鉄道もあり内航では尾道鉄道連絡船と東西南北の交通網がありました。空陸海全て揃っていたのは四国では初でした。ですから松山に空港を取られたのは誠に惜しいことです。物資は空陸海全て揃っているところに集まる。今治がそれを維持していればもっと発展していたでしょう。

戦後は自動車の発達でカーフェリーが出来ました。昭和34年に三原と就航し

翌年には下田水と就航しました。やがて客船の大型化に伴い、岸壁が整備され、貨物船も大型化していきました。しかし、内港は狭いので貨物と旅客を分ける必要があるので蔵敷に新港湾を作りました。昭和49年には今治港の乗降客が295万人とピークを迎えました。それから少しずつ減少し、しまなみ海道開通後は一気に100万人を割りました。貨物はというと新居浜港が昭和22年に貿易港に指定されましたが、それまでは税関が今治にしか無かったので今治を経由していましたが、貨物の取扱量も半分程度になりました。あまり減ると税関を閉鎖されてしまいますので材木の取扱量を増やし貯木場も出来、なんとかつなぎとめました。貨物においては旅客程減っていませんし、大量輸送の時代になりコンテナが必要になり、コンテナの仕分けも必要になってきます。新港湾にはコンテナヤードがあり、そこで仕分けて運送する一連の業務で最盛期ほどではないにせよ活況を呈しています。

 

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【直面する問題と対策】

港は船が出入りしてこそ意義があります。どうすれば船が出入りできるのか。定期航路は減少する中でどうするか。それにはクルージングが必要になってきます。相手があってこその港ですからネットワーク作りをしないといけません。

瀬戸内海が一体となって遠方から来ても滞在できるプランを作る必要があります。四国88か所はネットワークにより辺境の寺でも同じように人が来る。今治はネットワークを使いクルージングをすればいいと思います。幕末に英、蘭、仏、米の四国連合艦隊が下関を砲撃した帰りに瀬戸内海を通ってこんなにも次から次へと景色が変わる海は世界中どこにもないと絶賛していました。ヨーロッパの人達は1か所で見る景色より連続する景色に興味があるそうです。今、瀬戸内海で外国人が一番多い観光地は宮島です。今治とも近く宮島とつなぐ広域観光にはもってこいだと思います。

江戸時代に朝鮮通信使が下関を出て上関、蒲刈、鞆の浦、牛窓、室津、兵庫とつなぎました。現在は兵庫以外は主要な定期航路を外れています。牛窓はヨットハーバーと釣りです。よく東洋のエーゲ海と言われております。そこは岡山のリゾートエリアですから活況があります。鞆の浦は風光明媚です。その他の港は今治と同じで段々寂れてきています。では、今治はどうするべきか。持っている観光資源を活かすことです。合併により市の真ん中に海があります。こんなところは全国どこにもありません。ですから先進地に学ぶこともできない。だから今治がモデルを作ればいい。海でつながったまちですから橋という線ではつなぎきれない。海という面を使って広範囲につなぐ必要があります。

今、コンテナ船が全盛の時代で船が大型化しております。コンテナも大量に仕分けしないといけません。そこで赤帽が増えます。そうすると渡海船も増えないといけないのに何故増えない。島の住民の高齢化で橋を通行することもままならなくなり、病院に薬も取りに行けない。そこで渡海船が便利屋として代行サービスをすればいい。市が助成してでもするべきです。それに船はCO排出量も自動車よりも少ない。環境問題と高齢者対策両方が解決できます。

港というものは受け入れ先の港がないといけません。車にしても自宅に駐車場があっても行き先に駐車場が無ければ行くことが出来ても停められない。港もこれと同じでネットワークがないといけない。広域ネットワークで宮島と結ぶ。そこで今治港に受け入れ態勢を整えます。交流するためにはどういう建物が必要か待合室には船を待つ間の娯楽施設も必要だし来訪者に対する案内所等もてなしの気持ちで考えないといけません。ネットワークを構築し、交流するためにはオフィスビルではなく、交流できる建物が必要です。

海は常に動いております。判断を先送りしていたら命に関わります。刻々と変化する状況の中で先読みし判断する力が必要です。これを海の思想といいます。港を考える上でも思想教育が必要です。子供のための海の博物館を造りたい。中古の船を寄付してもらって岸壁に停泊させ、海の教育を行う。人材教育は子供のうちから始めてもいいのではないかと思います。そこまでして海事都市と言えるのではないかと。大消費地が近くに無いから海に投資をするしかない。ですから海運・造船が基幹産業になったのです。

これからを考える時には歴史を踏まえて考えないといけません。今治は常に歴史の中で先頭を行っていた。これからも他のモデルになれるまちであると考えております。

シビックプライドスクール講義一覧

 

今治シビックプライドスクール  

-歴史の中の今治とみなとー

講師 村上 正郎氏 今治史談会会長 今治文化協会会長

平成21年11月11日(水) 18:30~20:30

会場:今治市民会館 大会議室  

 

 今治シビックプライドセンター(ICPC)は交流拠点としてのみなとの賑わいを創出し、中心市街地再生へと波及させていく活動を行っています。

今治シビックプライドスクールは市民の方々に「いまばり」とは何者でどこから来てどこへ行くのかを考え、ICPCの活動の理解と協力を得ることを目的として御案内する連続講座です。

 第一期としてICPCの活動の拠点となる「みなと」地区を取り上げます。今治港は大正時代に四国初の開港場として発展し、瀬戸内海の交通の要衝として市民になくてはならない場所でした。しかし交通の港としての側面は衰退し、いま一度市民に親しまれる港の形を模索しています。

 今回は港とその周辺を様々な視点から読み解き、中心市街地再生の足掛りとしての「みなと」の共通認識を得ることを目指します。

 なお、来年度はみなとを基点として中心市街地再生を考える連続講座を開講予定です。

 

第2回 11月24日(火) 18:30~20:30

  「海運業と今治とみなと」 阿部克也 (日鮮海運株式会社 代表取締役社長)

第3回 12月 8日(火) 18:30~20:30

「今治商人とみなと」    村上哲朗 (今治商店街協同組合 理事)

第4回  1月19日(火) 18:30~20:30

  「しまなみ海道、今治の自然と人文」 小林真吾 (愛媛県総合科学博物館 学芸員)

第5回  2月 9日(火) 18:30~20:30

「瀬戸内海国立公園と今治」  桧垣淳夫、永田清美 (環境省中国四国地方環境事務所高松事務所松山自然保護官事務所) 

第6回  2月26日(金) 18:30~20:30

「今治のみなとと公共空間」 太田浩史 (東京大学生産技術研究所 講師) 

第7回  3月 9日(火) 18:30~20:30

 「みなと再生とまちづくり」   森脇 宏 (地域計画建築研究所)

第8回  3月16日(火) 18:30~20:30

「みなとから中心市街地を考える」 村田 武 (愛媛大学 特命教授)

 

■ 募集人員:30名程度

  2回目以降連続受講できる方を募集します

■ 受講料:無料

■ 開講場所

     1回 今治市民会館大会議室 

     第2回~第8回

    美須賀コミュニティプラザ 会議室 

■ 主催者および問合せ先

主催者     今治シビックプライドセンター協議会

       (Imabari Civic Pride Center) 

問合せ先  :  シビックプライドクール事務局

    ICPC協議会事務局 Tel0898 – 32 – 5126

   今治市市街地再生課 Tel0898 -36  – 1551

注) スクール中の写真をHPやポスター、ちらし

   等に使用することがあります

川根振興協議会 行政参画の自治②

昨日に引き続き川根での報告です。

辻駒健二会長さんは1992年から川根振興協議会の会長をされています。

 

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長男だったという理由で川根に帰ってきた辻駒さん。辻駒さんが帰ってきた頃から、川根は過疎へ向かっていっていたといいます。

過疎化で本当に怖いのは『心の過疎』だったといいます。

地域が行政に頼っていてはいけない。といっても誰も耳を傾けなくなっていたといいます。

 

自分のためにどうするのか?地域の共有財産をどうしていくのか?他の地域を見てどう思うのか?地域の合意の中でどうしていくのか?考えたといいます。

 

その頃は自分というものが中心で、まとめる人がいなかったといいます。わしがわしがの時代は議論もなにもなかったといいます。

 

その転機となったのが第一回目のほたるまつりだといいます。

そんなものやっても人がくるのか?やって何になるのか?という声があったものの開催してみると、人が訪れ、来年はどうする?という話になったといいます。

訪れてもらうためには、「道を広げなくてはならない。」という議論になり、行政に頼むのではなく、お金をかけず計画書を創りました。

その計画書を見ると道路周辺の田んぼが削られ、公論になったといいます。

何度も何度も話し合いをしている中で、地域の長老さんが「節操はあるんか?田んぼがつぶれるとは何事か?」とおしゃったといいます。

現地で説明会を重ね、2,3人がしょうがないかと言い出し、道路整備が決定していったといいます。

辻駒さんたちが書いた計画書は行政主導ではなく、自分たちが創った計画書でした。

そうして出来上がった道路は住民主導で創った道路となり、振興会の転機となりました。


それからは地域のことは地域で議論を重ねることが当たり前となったといいます。

役場の言うことはいいかげん。自分たちの責任で何事も行う。

自分らがぼーっとしていれば、役場もぼーっとしている。

要求を洗い出して、回答書を求める形にしていったといいます。

 

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会長の辻駒さんは、「会長としての自分があたりまえのことを言うかどうかだ」と言っていました。

自分がブレると地域がブレる。住民に対しても行政に対してもブレることなく「あたりまえのことをあたりまえに話してきた」といいます。

「カリスマリーダーなんかいない。地域のために出来ることを考えて動けばその人がリーダーになっていく。反対する人がいれば避けずに話をし、その人の持論を引き出しつつ進めればいい。」

ともいっていました。

辻駒さんの後のリーダーはいるのですか?と問うと「いるに決まっている。今の進め方を見ていて出来ることをすすめればいいだけだと」いっていました。

 

地域支援とは30年前にもどし、安心して暮らせるまちづくりに戻せばいい。地域経営は行政はやってくれない。生活のもとまで、自分たちでおこない、行政が参画する地域づくりをしていけばいい。そして自慢話ができるまちづくりをしたいとおっしゃっていました。

 

いつからか、まちづくりを行政の手にゆだねてしまったのでしょうか?

地域が出来ることは地域でする。

当たり前のことにどうやってもどすのかがこれからの地域経営には必要な時代がきています。

要求から提案へ

提案をするにはちゃんと議論を重ねないといけないことを感じました。

川根振興協議会 行政参画の自治①

 

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広島県安芸高田市高宮川根――。

今治市からおよそ4時間バスに乗り訪れた土地は島根県との県境。

携帯を見ると、ソフトバンクは圏外の土地。

ここをなぜ訪れたかというと、住民自治組織 川根振興協議会の活動を見学するためです。

 

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川根振興協議会

 

川根振興協議会のこれまでの活動を辻駒健二会長の文章から抜粋して紹介します。

 

「地域にいきる」―住民主体のまちづくり―

―誇りと自信の持てるふるさとを目指して

 

災害復興と過疎化への危機感から活動を開始
 川根地域は広島県北部、安芸高田市の北端に位置し、19集落、戸数252戸、人口589人の山間地域にあります。
 昭和40年代からの高度成長期に人口流出が加速していった中で、昭和47年7月、大洪水により川根地域は壊滅的な災害を受け、陸の孤島と化した。この災害は過疎化に一段と拍車を掛けたそうです。
 「行政は全てのことはしてくれない」「自分らにできることは自分らの手で」と昭和47年2月に結成された「川根振興協議会」は、被災を契機とした復興への強い意志と過疎化、高齢化による地域の将来への危機感から、地域福祉や生産活動など、川根に住み続けるための広範な活動を開始しました。
 組織は旧川根村を区域としており、区域内に住んでいる人は全て振興会の構成員であり、区域内のさまざまな団体も全て振興会の構成団体であるという基本的な考えに基づいて組織されています。

 

交流拠点整備と地域資源を活かしたイベント実施
 学校統合により廃校となった中学校の跡地活用について、施設整備の企画段階から振興会がかかわり、施設規模や地域での位置付け、施設の管理運営などについて協議を行い、平成4年に交流拠点施設エコミュージアム川根が整備されました。

 

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エコミュージアム川根

 

現在は、指定管理者制度によって振興会を中心とした組織が運営しています。

また群舞するホタルの生育環境を守ろうと河川清掃、生態学習、家庭排水対策などや景観整備の活動を始めました。振興会は、こうした集落の活動を「人の流れ」から「小さな経済」につなぐため、国や県の関係機関の参加を得て、自然保護啓発を主としたイベント「ほたるまつりin川根」を開催しています。

 

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ほたるまつり会場 

 

「そっと差し出す手の温もりが笑顔を招く」と書かれた竹筒の貯金箱が、各家庭や事業所に設置されている。一人ひとりが大切にされ、安心して住める地域づくりのため、一人一日一円募金が行われています。この募金を財源として、毎週木曜日一人暮らし高齢者の給食サービスを続けています。

  

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地域の担い手確保から生活・福祉対策まで
 地域の担い手確保のため、入居者が住宅の設計段階から参加できる「お好み住宅」があります。地域活動への参加や義務教育終了までの子どもがいることなどが条件で募集しています。現在20世帯が入居しています。

 

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 農協(JA)の統廃合により、店舗や給油所が廃止になりました。地域から店舗がなくなれば、車が使えない高齢者などにそのしわ寄せがくることから、JAから施設を譲り受け、一戸当たり千円を出資し「ふれあいマーケット」「ふれあいスタンド」として運営している。

 

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 こうした生活や福祉、担い手の確保や農地の維持にとどまらず、道路改良や河川改修などの事業用地の確保についても、「自然と人の共生」とした地域理念を基に、地域の景観保全を考慮しながら、振興会が事業提案を行い、そのために必要な用地の調整も行っています。
 川根に気持ち良く住み続けるため、自ら提案し、責任を持って行動する。誇りと自信の持てるふるさとを目指して、生活の中からの取り組みを続けています。

 

 

行政との協働による提案型の地域づくり
 こうした活動は、「自らの地域は自らの手で」とした主体的な地域活動と、それを的確にサポートする行政との協働によってつくり上げられたものです。その起点となったのは、住民と行政の対話の場「地域振興懇談会」であった。この会は行政との課題共有や情報共有を図る目的であったが、当初は一方的な要求の場でもありました。
 回を重ねる中で、住民として担うべきこと、行政がすべきこと、双方が連携して取り組むことなどが整理され、要求型から提案型への懇談会となってきています。また、組織運営は、リーダー一人で担い切れるものではなく、さまざまな分野の人材を探し出し、意を同じくする仲間と共に役割・責任の分担を図ることも必要です。
 活動の展開に際し、地域に住む行政職員のサポートには心強いものがある。地域への情報の蓄積、行動のためのアイデア、煩雑な事務処理など、職員には地域活動の下支えとして、さらには、まちづくりの仕掛人またコーディネーターとして、自覚を持ってさまざまな活動に関与してほしいものである。

 

成果を地域と共有する感動ある活動展開を
 まちづくりは「行政参画」であるべきととらえている。主体的な住民自治活動に対して、行政は積極的な情報開示とともに、財政支援や人的な支援など的確な支援で応えていただきたい。
 過疎・高齢化の進行で将来の不安はぬぐえない。しかしながら、地域の皆さんが誇りを持ってここに住むための川根振興協議会であり続けたい。「皆で考え、悩み、共に行動する」その成果を皆で共有し、感動できる活動を今後とも展開していきたいと考えている。

 

これが川根振興協議会のこれまでの動きです。『自分たちのことは自分たちの手で』あたりまえのことのように思いますが、あたりまえでない世の中が今訪れています。

明日は辻駒会長とのお話の中で出てきたきらびやかな言葉を紹介します。

明日もお待ちしています。

商店街の夜店にべニーズを開けていると、ICPCの活動は皆さんに認知されてないと実感します。

今年の夜店は例年以上に人出も多くべニーズの前を多くの人が通りすぎています。

べニーズを見、「ここなに?」という顔をして行く人も多いのですが、「ああここ」と納得する顔も見受けられます。

そういう顔をされる方はごくわずかで、みなさん巣通りされていきます。

 

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しかし、何人かの方はべニーズを目指し訪れてくれました。

先週は3人の若い女性がわざわざべニーズを訪れました。

建築関係の方かとお聞きするとそうではなく、原先生に関心がある方でした。

今治にもそういう方が居られるのだなと思ったしだいです。

ここに場所があるだけで、人は訪れます。

べニーズのスタートはそんなものでいいのかな?と思います。

何かの時に「あああそこか!」というために夜店の時に開けている次第です。

 

今日は商店街の方が訪れ「商人まつり」のことについて話しをしました。

ICPCは商人まつりで、『子ども商店街』を行うということは決まっているのですが、具体的な内容は詰め切れておらず、どういうスタンスで商人まつりに関わるか?という問いにちゃんと答えきれませんでした。しかし出来ることは、事務局対応で関わっていきたいという話をさせていただきました。

「港から発展した商店街の同線をどうにかして、昔の同線にもどせないか」という問題をいただきました。

 

その後も今日はひっきりなしに人が訪れ、初対面の方とICPCについて話しあいます。

 

今日お聞きしたのは、「これから港がどうなっていくのかというビジョンをしっかり示してください。」とのことです。

それをちゃんと示さないと「協力もできなく、わからない団体に終わり、批判だけが集中する。」とも言ってくれました。

そうなんです。

 

港がどう変わっていくのか・・・

ちゃんと発信していきます。

もうちょっとお待ちください。

 

明日も夜店です。

どんな人が来られるのか、どういう話し合いができるのか楽しみです。

セイルアートしまなみ2009

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瀬戸内しまなみに、帆(セイル)の花を咲かそう-。愛媛県上島町の弓削島(ゆげじま)周辺を舞台に7月18、19の両日、全国からクルーザーヨットを招いて、親善レースや体験乗船などのイベントが開催されました。
 しまなみ海道の開通10周年を記念する事業の一環で、マリンレジャーの拠点として整備された「海の駅」の活性化を図るのが狙いです。
  19日は、「セイルアートしまなみ2009」と銘打ってクルーザーヨット約40艇による親善レースを開催されました。参加艇を2クラスに分け、午前8時半にスタート、弓削島東回り約5マイルのコースでゴールを目指しました。

 

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海事都市今治のこれからを思い、見学にいったのですが当日は暴風雨。時間どうりにいったのですが、レースはスタートしていました。

 

望遠レンズを構えたアマチュアカメラマンの方からも、「ブルーの海にだったら映えたのに、このグレーの海じゃあね」という声が聞こえてきました。

 

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しまなみ海道という財産がある今治。ヨットの雑誌を見てみるとしまなみ海道のよさを特集しているのも見受けられます。

現在ヨットマンからは今治港はなかなか利用しにくい港のようです。

今治の方は新居浜に係留されていると聞きます。

ヨットを係留し、トイレ・シャワー・水の補給など港に寄港し行うことは数多くあるそうです。

 

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今治港は商店街と直結しているため、立地的にはベストの立地と聞きます。

今航路削減で空いている桟橋に寄港できるよう、今治市に働きかけている方もいます。

潮の満ち引きにより上下する可動桟橋等ができればもっと今治に寄港するのにともおっしゃっていました。

海からこられた訪問者を温かく迎えられるような港。全国・世界のヨットマンから注目される港にぜひしたいものです。

べニーズからのお知らせ

ICPCと愛媛県建築士会今治支部が協働し、今治の港にこんなものがあったらいいなという絵画を募集します。

 

みなと再生プロジェクトが推進されている港を舞台に、皆さんの自由な発想を展開してください。

 

優秀な作品は商店街に展示し、もしかすると模型化されるかも!

 

豪華賞品もあるかも!ぜひ参加してください。

 

今治市内の小中学校のみなさんへ(絵画募集)

 

 

今治の港

 

 

 

こんなもの

 

 

 

あったらいいな!

 

 

(社)愛媛県建築士会 今治支部

ICPC協議会(今治シビックプライドセンター)              

      

 

2015年を目標に今治の港(現在の港務所のある場所)は新しい建物と広場に生まれ変わろうとしています。

みなさんが今治の港にこんなものがあったらいいな!

と思うものを描いてみませんか。

みなさんが考える夢の広場、たてもの、遊び場、モニュメントなど何でもOK!

全作品を商人まつり(101011日)で展示し、優秀な作品は表彰します。

参加者全員に参加賞を用意しています。

たくさんのご応募をお待ちしております。

 

  応募のきまり

個人またはグループでも可

八つ切り画用紙  1

画材は自由(絵の具、クレヨン、色えんぴつなど)

画用紙裏面に指定用紙(必要事項を記入)をはり、94日(金)

までに学校へ提出してください 

 

  お問い合せ先

  ICPC協議会事務局 ベニーズ(常盤町2丁目34 TEL・FAX 325126

 

みなと再生プロジェクトのプロポーザルにて最優秀提案となったA・N・K共同企業体の案には『パブリック・コンストラクション』という案があります。

この案の内容は、港に出来る小さな建築物(発券所・待合室など)を《東アジアの大学・日本の大学の学生に設計してもらおう》という案です。

まだ決定事項とはなっていませんが、こういう案に今治市のいろいろな建築に関わる事業者をはじめ、市民全体で建築物を建てていこうと考えています。

今回の皆さんの提案もこれからどうなっていくのか分かりませんが、市民みんなで港に出来る建築物を考えるのもおもしろい仕組みです。

 

なんらかの形で小中学生の案がこれからの港に活かされるよう展開してみたいものです。